2009年09月26日

【読了】日本語が亡びるとき【五】

「日本語が亡びるとき」という本が一時期、ネット上で話題になった。
なぜ話題になったのか、どういうポイントが受け入れられたのか。
書評をよく読むこともなく、いまいちはっきりしないまま、他の本を購入するついでに目についたので取り寄せてみた。

この本を読む前に、私は寡聞にして「水村美苗」という小説家を知らなかったし、この方が何を意図してこの本を著したのかも知らなかった。
ただ、そのタイトルと副題「英語の世紀の中で」という言葉とネットで評判になったという事実から、ぼんやりと「ああ、インターネット上での統一言語が英語となって、日本語が危ない」という話か、それとも「昨今の日本語の乱れが…」という内容かと勝手に思いこんでいたような覚えがある。

ページをめくってみてまず目に飛び込んできたのは、夏目漱石『三四郎』の一文。(これは本文中にも指摘がある、主人公が上京する列車の中で広田先生と話す場面である)
「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。
すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」と云つた。


なかなか過激な物言いから始まったこの本は、最終的には世界の中での日本語(あるいは日本文化)が亡びてしまう危惧に関し、筋道立てて展開されており、この広田先生の言葉は全く大げさなオープニングでも何でもなかった。
全7章構成のうち、はじめ2章分こそ、著者の体験を交えた内容となっており気楽に読んでいけるが、その後は「普遍語」「現地語」「国語」という3つのキーワードを中心に、「書き言葉」「読み言葉」という分け方を意識しながら、ある時は歴史的事実を交えて、またある時は世界での例を引きながら、現在日本語がたたされている状況とこれからの展望を論じている。

これまで様々な偶然や人々の努力によって、奇跡とも言えるほど確立した地位を築いた日本語。その存在は日本における「平和」や「きれいな空気・水」といった、他国では貴重な概念をさも「当たり前」という一言で流してしまうものの中心に位置している。
誰もが「英語の世紀」という概念に共感しても、「だからこそ、日本語の存在が危ない」とは想像できない。
法隆寺が取り壊されて停車場になろうとも、英語が日本での第2公用語になろうとも、「日本人は絶対に未来永劫日本人で有り続ける」という思いこみ。
その普段意識すらしない「思いこみ」に、この本は切り込んでいる。

本当はもっと深い読後振り返りをしたいが、恥ずかしながら、私の弛緩した頭では300ページを超える論述を十分消化することができない。
恥を重ねて告白すれば、一つのテーマに対してこれだけ長い論述文を読んだのは初めてかもしれない。
日本語の危機を回避するために、日本語教育に踏み込んで提案をした著者には「最近の若者はこの程度の文章も…」という悪しき例として出されてしまうかもしれないが、薄っぺらい国語の教科書で得た文章に触れる体験は、私の頭をその程度にしか鍛えることができなかったということであろう。
もちろん、自ら鍛えることをしてこなかったことが最大の要因ではあろうが。

少し時間をおいてから、もう一度通して読んでみようと思う。
著者の言わんとすることを意識して流れを感じながら読み進めれば、今のモヤモヤした読後感も幾分かはすっきりするのではないかと期待して。

内容を頭の中でかみ砕くのに多少骨が折れる面はあるものの、文章に慣れ親しんだ高校生ならおそらく十分読み進めるであろう。
何より小説家が書いた故なのか、文章自体はとても読みやすいし、引き込まれる。

Amazon等のレビューでは、手ひどく批評されている文章も見られる。
きっと私のような学のない人間が想像する以上に、彼ら「叡智を求める人」には不満を感じる内容なのかもしれない。
ただ、私のように素直に感心してしまうような人間も、「そうぢゃない」(あえて古文調)と反駁する人間も、日本語や日本文化について考えるよいきっかけにはなるのではないか。
軽いタッチの本に飽きたらず、まじめに読書に取り組む人には是非お薦めしたい一冊である。




posted by K大 at 22:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を楽しむ
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